気になるのはついて行く人たちのこと。煽動するヒーローや怪しげなカリスマはいつの時代にも現れる。世界を単純化して描いてみせ、問題の解決を明確に解説し、わかりやすく理想を語る。私はそういったわかりやすさを疑ってかかる人だし、そもそも集団とか組織には馴染めない性格だから、そういう人に対しては鼻っから背を向けてしまうのだが、世の中にはそうでない人も多い。
オウムの地下鉄サリン事件で引っかかっているのは教祖・松本智津夫がどういう人間であったとか、教団が何故暴走したのかということよりも、その言動に惹かれ、ついていこうと思った人たちのこと。何故「真面目な人が狂う」のかということ。逆に言うと私のような不真面目でいい加減なヤツは狂わない、そんな気がするのだ(勝手にそう思い込んでいる可能性もあるが)。
事件の実行犯たちのほとんどは、賢く真面目で心優しい人たちであったようだ。それが狂った。いや脳は正常なのだから狂ったわけではないだろう。正常な判断ができなくなったということか(正常異常の判断についてはひとまずおくとして)。あるいは自分が判断することを放棄したのかもしれない。
宗教学者の太田俊寛さんはそれを「全体主義」によるものと判断されている。自我を放棄し(それが教義でもある)、集団と同化することで心の安定を得る(孤独から救われる)。そういうことのようだ。なるほどと思うが、そのわかりやすさも気になる。(ざっくりとまとめてしまうと、煽動者はロマン主義的原理主義で人心を惹きつけ全体主義で自分の理想を実現しようとする、ということ)
子どもたちの将来を案じ反原発運動を支持する人も、日本経済の行く末を案じ原発稼働を支持する人も、どちらも幸せな未来を望んでいることに違いはなく、私にはどちらも悪い人たちには思えない。但し、そこには理想の描き方、実現のさせ方に大きな違いがある。
論理的、科学的根拠というものが人を生かす絶対的根拠にはならない、というのは当たり前のよう思うが、その延長線上にオウムの地下鉄サリン事件の土壌があるように思う一方、芸術や文学、そして愛を育む土壌として、感覚的な認識、感情的な判断というのはなくてはならないものだとも思う。論理的ではないものを切り捨てる、というわけにはいかない。
煮え切らず、飲み込めないもの喉に詰まらせながら、それでもなんとか飲み込もうとしている。